********珊瑚礁の彼方へ*********
( 9 )
この島の住人ではないはずなのに、宏隆はこの少年に見覚えがあった。
少年ぽさがまだ色濃く残っている可愛らしい顔立ち、しかし、宏隆の住んでいた都会にこんな特異な風貌を持つ子がいたなら、忘れられるはずはない。
だが、幾ら思い出そうとして思考を巡らせても宏隆にはどうしても思い出せなかった。
確かに知っているはずなのに彼が誰なのか、まるで記憶に靄が掛かったかのように釈然としなかったのだ。
どちらが先に気づいたのか、申し合わせたように二つの顔がじっと佇んでいる宏隆の方へ同時に向いた。
先に口を開いたのは、麟ではない、もう一人の少年の方だった。
「やぁ、ヒロ。
随分と顔色良くなったんだね。昨日はだいぶ遠くまで行ったんだって?足の怪我はもう良いの?」パッと可愛らしい顔を綻ばせ、彼は親しげに宏隆に声を掛けてきた。
「・・・・・・・・・・」
彼に話しかけられた宏隆の身体に戦慄が走り抜ける。
ボーイソプラノがまだ残る、幼い声。
その声に宏隆は愕然としたのだ。
この子は・・・・・・・・・・・
「君は・・・・潜?」
嘘だろう・・・僕が潜に会ったのは、たった、二日前。
あの時はまだほんの子供だったじゃないか。
言葉を失い硬直している宏隆の元に、鱗と潜の後ろの小屋から、濱と漁がひょこっと愛らしい顔を覗かせて、おもむろに駆け寄ってきた。
「あっ!ヒロ!!
ねぇねぇ、潜ったら狡いんだよ。僕たちと同じに生まれたのに一人だけ先に成長しちゃったんだから」ずるいぞ、ずるいぞ〜と、人なつっこい漁が宏隆の腰の周りにまとわりつきながら、小さな唇を不公平だと尖らせる。
「仕方ないじゃないか、凪さまが潜だけに許可をお与えになったんだから。漁も濱も直にお許しが出るよ。ね?」
こんな事は、麟にとっては驚くに値しないことなのだろう、両腕で子供達を引き寄せ、慰めるように微笑んだ。
宏隆はまるで狐にでも摘まれたように訳が分からなかった。
島を出て、波が麟と新たなコロニーを作るためにこのコロニーを仕切っている凪からの許可が必要だという、さっきの櫂の話ならまだ解る。
たとえ、それが男同士の結婚を意味するのだとしても、同性間の婚姻が認められている所だって、他にもちゃんとあるのだから。
だけど、成長は成長だろう?
幾ら統治者が認めたからって大きくなるものなんかじゃない。
それにかぐや姫じゃあるまいし、なぜ、たった二日で、10才にも満たない子が、青年と呼べるほどにまで成長したりなんか出来るのか?
ここが現の世界じゃないかも知れないと、あやかしか、幻夢の世界かも知れないと漠然と胸に抱いていた宏隆の疑念が大きく膨れ上がってくる。
「ヒロ? 大丈夫?」
棒立ちになった宏隆を、麟は心配そうに見上げ、そっと、腕に手を掛けた。
「よせ!」
止められない疑念に、思わず麟の華奢な腕を宏隆は邪険にも払いのけてしまった。
「何者なんだ?お前達は?
変だよ、お前達は変だよ!!」ゆっくりと首を振りながら、悲しそうに宏隆を見詰める麟と無邪気にぽかんと眺めている子供達から宏隆はズリズリと後ずさった。
悲しげに見詰める麟の瞳が宏隆には堪らない。
怖いとか、気味が悪いと思えた方がずっと良かった。
人間ではないと、麟のこの可憐な姿がただのあやかしに過ぎないと解ってしまった今になっても、僕は、僕は・・・こんなにも麟が恋しい。
宏隆は、今更引き返すことの出来ない思いのはけ口を探しあぐねていた。
「凪さま!凪さま<いるんだろう!出てきてくれよ!」
足の傷などどこかに飛んでしまったかのように、息が切れるほど全速力で駆けて戻った凪の小屋の前で、宏隆は大声で叫んだ!
宏隆に真実を、この歪んだ世界を、説明できる誰かがいるとすれば、それは凪以外にはいないだろう。
ヒンヤリとした薄暗い小屋の中はシンと静まり返り、照りつける日差しから遮られたそこは藍色に染まり、空気が独特の澱みを持ち深い海の底を思わせた。
しばしの間が空いて、簾の奥から、今度は凪自身がゆるりと現れた。
島の誰よりも一際明るいオレンジ色の髪を、腰の辺りまでゴージャスに波打たせ、色香の漂う大柄な肢体の凪は、美しい眉を訝しげに寄せて、宏隆の方へと滑るように歩を進めた。
「いったい、お前は朝から何を騒いでいるの?」
「教えてくれよ!ここは一体どうなってるんだ?」
「どうなっているかだと?」
かみつくような勢いで話す宏隆に、凪は片方の柳眉をあげ、訳知り顔で椰子の繊維で編まれた敷物の上にゆったりと腰を下ろすと、宏隆にもとりあえず座りなさいと床を指し示した。
「それで?」
「そ、それでって・・・・」
「気づいたのであろう?我らと自分自身の違いに」
「やっぱり!あ、あんた達はいったい何なんだよ?」
「いったいなんだとは、これはまた無礼なことを・・・」
土鈴を鳴らすような深い響きで、凪は歌うように肩を振るわせて笑った。
「無礼だって?何言ってるんだ!
あんた達が変なんじゃないか!」「そうか?我らはずっとこうして生きて来たのだがな」
凪は目の前で興奮している宏隆に向かって軽く肩を竦めて見せた。
「だって!おかしいよ。ここのみんなは変じゃないか!」
「お前達が普通で、我らが変だと誰が決めた?
魚から観れば鳥は異種で、鳥から観れば獣はまた異種だ。
お前から観て、我らが変わって見えるとしても、我らに何の非もない。
お前達と我らは異種なのだ。
ただそれだけのこと・・・」淡々と語る凪に、宏隆の気負いも少しずつ削がれていく。
「じゃあ、異種だって認めるんだな?
それなら、あんた達の常識を僕に教えてくれ。
なぜ、女はあんたしかいない?
それに、潜はなんでたった二日で青年になってしまうんだよ?」「お前は、よそ者だろう?
わたしたちの事を詮索してどうする?」「ど、どうするって・・・」
「お前は島を直に出ていく身ではないか?」
凪に核心を突かれて宏隆はグッと言葉に詰まった。
「ぼ、僕は、ただ・・・・」
「我らは確かにお前達とは異なるものだ、だが別にお前を取って食いはしない。
むしろ、命を救ってやったではないか?
それに、ちゃんとお前をお前の世界に帰してやると言っておるだろう?それ以上、一体、お前は何を望むのだ?」「そ、それは・・」
宏隆には返す言葉がなかった。凪の言っていることは正論だ。
明日にでも島を出る宏隆に彼らを詮索することもとやかく言う権利も有りはしないからだ。
奥歯を噛みしめて俯いてしまった宏隆に凪は溜息と共に愛おしむように言った。
「ヒロ・・・お前の気持ちが分からないわけではない。
だがな、たとえ、お前が心底、麟に惚れていたとしても、お前に麟はやれぬ」「ほ、惚れ・・・」
予想していなかった凪の言葉におもむろに顔を上げ口をぱくぱくさせた宏隆に、
「おや、そんなに驚くことはないだろう。
お前が麟を見る目が全てを語っているではないか」カッと赤面した宏隆の腕に手を掛け、凪は続けた。
「麟もお前を憎からず想っているようだが、お前がよそ者であろうがなかろうが、麟は大人にはなれぬ」
凪は宏隆の背中越しのコバルトグリーンに輝く水平線の彼方を切なそうに見詰めて、ポツリといった。
凪のその口調に宏隆は小さな戦慄を憶えた。
麟はやれぬと言われたことよりも、もっと根本的な何かが凪の口調にはあるような気がした。
麟にとって、今凪が話したことはあまり喜ばしい事とは思えなかったからだ。
「麟が大人になれないってどう言うことだよ?
麟は波とペアとやらになるんだろ?波が昨夜、麟とコロニーを作りたいと言ってきたんじゃなかったのか?」「あれも相変わらず口が軽いな・・・
櫂に聞いたんだね?」呆れたなと、綺麗な造形を綻ばせて、凪はフッと微笑んだ。
「今朝、麟を探しに来たときに聞いたんだ」
「そうか・・・・
それで?
お前は結局、何が知りたい?」全てを知り尽くしているような、南海の海の色をたたえた凪の賢い瞳が、宏隆の瞳をしっかりと捉えた。
僅かばかりの未知への恐怖が宏隆の上に覆い被さってくる。
知らずにこのままここを立ち去るのが最良の方法だと言うことは宏隆にもよく分かっていた。
凪はもう認めているではないか?
自分たちは所詮相まみえぬ異種なのだと・・・・
それでも、結果がどうであろうと、このまま、この地を去る気にはどうしてもなれなかった。
まして、麟は波のものではないと今、凪は言わなかったか?
一縷の望みがまだ、自分にも残っているのかも知れない。
そんな甘い期待が宏隆の心の深淵を揺さぶってならなかった。
凪を見詰めたまま、宏隆はゴクリと喉を鳴らし覚悟を決めると、きっぱりと言い切った。
「全てを教えて欲しい。
知ってどうするって訳じゃない。
凪さまの言うように僕はよそ者だ。
身体だってほとんど本調子になったんだから、明日にでも帰りたいと思っている。
だけど、このままじゃ嫌なんだ。このままじゃ帰れない」