********珊瑚礁の彼方へ*********

 

( 3 )

 

「おはよう。ヒロ。
お腹空いたんじゃない?」  

麟の声かけにぼんやりと宏隆の意識が覚醒しはじめた。   

不思議な不思議な夢を見たなと思っていた宏隆は夢の中の美しい二人の姿を思い出し、今さっき呼びかけられた声の主と麟の顔がシンクロした瞬間、あれは夢じゃなかったんだと、パッと大きく目を見開いた。  

朝日が射し込み照らし出したそこは、昨日彷徨う意識の中で垣間見た簡素な小屋そのままだった。  

「あ・・・お、おはよう・・・」  

歩み寄ってきた麟に瞼をしばたたかせてなんだか真抜けた声で返事を返すと、

「よかった、だいぶ声も出るようになったんだね?
まっててね、すぐに朝ご飯だから」  

麟は宏隆の横に腰を屈めてニッコリと笑らい、パッとしなやかな身体を翻して小屋からぱたぱたと駆けだしていった。  

麟が出て0いった小屋の入り口に目を遣るとオレンジ色の小さな可愛らしい頭が三つ物珍しそうに小屋の中を覗き込んでいたが、走り抜ける麟になにか言われたのだろう、まとわりつくようにして麟と一緒に行ってしまった。    

「ゆっくりで、いいからね。
ほら、もう少し頑張って」   

華奢な腕で麟は宏隆の頭を抱き起こし、口唇に椀から掬った匙を甲斐甲斐しく運んでいる。  

咀嚼するにも体力を消耗するのだろう、5匙ほど飲み込んだ宏隆はすまなさそうに微笑むと、麟に小さく首を振った。

「もういいよ・・・」

「ダメだよ。ちゃんと食べなきゃ、ね?」  

宏隆が食べているものは何かの芋なのだろう、それをココナッツミルクでおかゆ状にペーストしたものを、麟が木製の匙で根気よく食べさせていた。  

優しく微笑んで、もう一口食べてと促す麟に、宏隆は困ったような苦笑を返す。

「ゴメン。
本当にもう食べられないんだ・・・・・」  

麟が折角作ってくれたんだからと頭では思うのだが、思いの外身体が弱っているのか、とてもこれ以上は食べられそうになかった。

「そう?じゃあ、また食べたくなったら食べようね」  

意識が戻った頃に比べると、かなり顔色もよくなり、起きている時間も長くなってきているのに、なかなか食事を食べてはくれない宏隆が気になって麟は困ったように頷いた。 

仕方なく椀を横に置き、麟は宏隆の口元を濡れた手ぬぐいで優しく拭き取ってから、そっと頭の下から腕を抜き取る。

「じゃあ、傷の手当をするから、ちょっと辛抱してね」  

足下の上掛けをそっと捲り、大腿部に大仰に巻かれた白い布を、麟はクルクルと巻き取り手際よく外した。  

珊瑚礁に傷つけられ、かぎ裂き状態に切り裂かれた肌は、痛々しそうだが見た目ほど深い傷ではなく、麟が日に数回すりつぶした薬草を傷口に張り替えてくれるおかげで、化膿する事もなく少しずつ傷口は盛り上がり塞がってきていた。  

しかしこの消毒作用のある薬草はかなり傷口に染みて、宏隆が歯を食いしばり、小さなうなり声をあげて痛みを堪える間だ、麟はいつもギュッと宏隆の手を握りしめてくれていた。  

宏隆にとって麟の笑顔は何よりのクスリだった、麟が微笑むとまわりの空気までが優しく歌うように柔らかくなる。

「はい、もう終わったよ。
少し休むといい」   

手当をし終えると、麟は宏隆のお腹の辺りまできちんと上掛けを掛けてやり、食事や手当の道具を片づけ始めた。  

宏隆は小さな声で礼をいい、何とはなしに麟の姿を目で追っていた。  

誰かにこんなに信頼を寄せたのは初めてのことかも知れないなと宏隆は思った。  

母はもちろん年の離れた兄たちにも可愛がられて育ってきた末っ子だが、普通の家庭のような団らんというものは饗庭家には存在しなかった。  

父も母も忙しく、兄たちも年を重ねる毎に忙しくなり、宏隆は入れ替わり立ち替わり身の回りの世話をしてくれる他人の中で育っていたからだ。  

それ故に、誰とでも付き合うことが出来る処世術を身に付けはしていたが、誰か一人ににべったりと甘えると言うことをしたことはなかった。  

いま、宏隆は完全に麟に全てを委ねていた。  

それも、たった数日間の間に信じられないほどに大幅な信頼を寄せて。  

宏隆が裕福な饗庭家の人間だと知って、手もみしながら近づいてくる輩は沢山いた。宏隆の素性を知ればいくらだって麟と同じように甲斐甲斐しく面倒をみようとする者も確かにいるだろう。  

だが、麟は全く素性の知れぬ宏隆がほとんど自力で身体を持ち上げることすら出来なかった最初の数日間でさえ嫌な顔ひとつ見せることもなく献身的に看護をしてくれたのだ。                 

日にち薬とでも言うのだろうか、少しずつ話せたり起きあがったり出来るようになると麟は時間があれば宏隆に乞われるまま、色んな話を聞かせてくれるようになった。

そのおかげで床に伏せていたとはいえ、この不思議なコロニーの全貌が小屋に籠もったままの宏隆にもなんとなく見えてきた。    

麟の話を要約すると、ここは環礁と呼ばれる輪っか状の珊瑚礁に取り囲まれた礁湖(ラグーン)の中にある小さな島で、その外周をぐるりと歩いても1時間程の小さな島自体が凪を中心にしたコロニーであるらしい。

島には今宏隆がいる小屋(バラック)と同じような小さな小屋があと三件建っているらしい。

宏隆が世話になっているこの小屋は元々麟が一人で暮らしている小屋で、凪さまには櫂(かい)という屈強な夫がいて、二人はここから少し西に行った所に建つ、もう少し大きい小屋に住んでいる。  

そのほかの小屋は二つ、片方には波(なみ)と呼ばれてる背の高い18、9の青年が一人で住み。
残りの一件にはその下にいる10歳前後の少年、潜(せん)・漁(いさり)・濱(はま)が3人で同じ小屋に住んでいる。  

なぜなのか凪を除く全ての住人が男子だった。    

麟の話によると、凪はまるで、新興宗教の教祖様のように一日何もせずに、他のものをしもべのように働かせている。  

麟にとって、島唯一の女性である凪は神にも等しい存在で、心からの深い尊敬と憧憬の念を凪に抱いているらしい。  

これは何も麟に限ったことではなかった。

この島に住むものにとって凪はまさに女王のような存在なのだ。  

彼女はただ、ゆったりと寝そべって、仕事の合間に凪に会いに来る子供達に優しく話しかけ、時には規律や約束事を守れない者を厳しく諫める事もある。   

そして、誰にはばかることなく麟達が凪さまのペアだという逞しい櫂の腕に凭れ、気が向けば、日の高いうちから櫂を誘い寝所へ連れていくという。   

どうやらそれは男の櫂がではなく、あくまでも二人の中で主導権を持っているのは凪なのだ。  

見た目の年齢よりも折につけ見せるかわいい仕草がより幼さを感じさせる麟が、当たり前のことのように無邪気に、睦み合う二人の話をするので、かえって宏隆の方が恥ずかしくなって、この二人の話が麟の口からでると、咄嗟に話題を変えることが多々あった。  

麟にとって、ペアが愛し合うことは禁忌でも何でもなくごくごく当たり前のことのようで、麟はその度に真っ赤になる宏隆の顔を不思議そうに覗き込んでは、コロコロと可愛らしく笑っていた。