********珊瑚礁の彼方へ*********
( 4 )
魚やフルーツを盛り合わせた昼食。
毎日、食べ物と言えばほとんど変わらない。
贅沢な暮らしをしてきた宏隆はにとってこの食事やここの質素な生活が物足りないと言うよりも、なんだか今までの生活がかえって嘘のようにも思えた。
食べきらない食事から自ずと出る大量の残飯。
なんて、無駄なことをしてきたのだろう・・・・・・
今まで考えもしなかったことを、宏隆は小屋で、よく考えるようになっていた。
食事のありがたさを知るには空腹が最大のご馳走だと聞いたことがあるが、今まで飢えたことなどはたしてあったのだろうか・・・
麟の運んできてくれた質素な昼食に感謝して味わいながら食べ終わった宏隆は、退屈しのぎに窓から見える浜辺を眺めた。
窓から見える白い浜辺に、麟と三人の子供達がいるのが見えた。
「おう、ヒロ!どうだ、具合は?」
麟が浜で子供達とはしゃぎながら海藻拾いをしているさまを、窓辺に凭れながら眺めていた宏隆の背後で扉が開き、唐突に男らしく太い声が掛かった。
突然の訪問者は凪の夫の櫂で、宏隆が起きあがれるようになってからはほとんど毎日顔を出すようになっていた。
「ええ、もう随分良いんですがまだちょっと傷がひきつって足がもつれる事があるから、麟が小屋から出してくれなくて」
キラキラとお日様の下でオレンジ色の髪を煌めかしながら、打ち寄せる波と戯れている麟から視線を外ずさずに宏隆は櫂に応えた。
「麟は顔に似ず、頑固だからな」
ぬっと、逞しい腕を宏隆の横からくり抜かれただけの窓枠にかけて、櫂はさも愛おしそうに彼らの様子に目元を和ませた。
真横にある櫂の横顔は男らしさと美しさを併せ持っていて、同じ男の宏隆が観ても惚れ惚れとする美男子だ。
宏隆の兄の慶吾も男らしく整った顔立ちと言う意味では同じタイプに属するのだろうが、櫂の場合は凪達と同じくどこか人間離れした美しさだった。
「そうそう、可愛い顔してるくせに、結構おっかないですからね麟は」
「ははっは。それだけ一生懸命なんだよ、分かってやってくれ」
本心は早く動き回りたくてうずうずしている宏隆の苦笑に、高らかに笑った櫂は、宏隆の頭を豪快にぐしゃぐしゃと掻き回しながら、ふざけっこをしていて転んだ子供を慌てて抱き起こし怪我がないかみてやっている麟を、ほら見てご覧と顎で指し示した。
「子供達ももう随分大きくなってきてるのに、ほら、いちいち面倒をみてやってるだろう?
俺も凪さまももちろん子供達を愛しちゃいるがな、麟ほどまめに構ってはやらない。
だから、子供たちも自然と麟に懐く。
麟にとっても子供達にとっても必ずしも良いことだとは思わないが、先天的に弱ってるものや幼いものを放っておけない、そういう性格なんだろうな。
嵐の去った後、瓦礫と一緒に東の浜に打ち上げられた死人同然のお前を、麟が必死で蘇生させた時の様をお前に見せてやりたかったよ」当時を思い出したのか櫂が凛々しい眉根をクッと寄せた。
「蘇生って・・僕は、息がなかったってこと・・・?」
櫂の表情で、今まで思っていた以上に危険な状態だったんだなと知った宏隆は、櫂の瞳の真剣さに、思わずみぞおちの辺りがゾクリとした。
「ああ、血相を変えた潜が俺達を呼びに来て、俺が駆けつけた時はお前は既に土気色でな、正直言ってもう無理だと思ったよ。
諦めろと凪さまも麟を諫められたんだが、頑として譲らなくてな。
僅かに触れることの出来る弱い脈を確かめては、
『死んでません!まだ、生きてますよ!』って言い張って、必死になってお前に息を吹き込み続けてんだ」「じゃあ、僕は・・・・」
麟が僕に息を・・・宏隆は口の中でポツリと呟いた。
「ああ、麟がいなけりゃ、今ここにお前はいないな」
ポンと肩におかれた櫂の大きな掌の温もりを感じながら、改めて浜辺にいる麟に視線を遣ると遠くにいても宏隆の視線に気づいたのか、麟が海藻を摘んでいたほっそりとした白い腕を上げて宏隆に向かって大きく円を描くように振った。
櫂がひとしきり世間話をして小屋を後にしてからしばらくして、弾むような足音と一緒に扉がガタンと開いた。
「櫂はなにか用事だったの?」
小屋へ帰ってくるなり、麟はおもむろに大きな声で宏隆に尋ねた。
足早に近づいてくる麟の顔が心持ち曇ってるように見えるのは錯覚だろうか?
「用があったわけじゃないみたいだよ。
元気かってさ。様子を聴きに来てくれたんだ」「様子?なんて?なんて答えたの?」
麟の普段優しい顔がサッと気色ばむ。
「なんてって?別に・・・本当のことを話しただけだよ」
「良くなった、なんて言っちゃ駄目だよ! まだちゃんと傷も直りきってなんかないんだから」
「分かってるよ、無茶はしない。 まだ、普通には歩けないと言っておいたから。 ちゃんと直りきるまでゆっくり養生させて貰うよ、麟がくれた大切な命だからね」
笑い掛けると麟はホッとしたように短く息を吐いた。
「よかった・・・」
「へんな子だな、麟は。 何故、見も知らない僕にこんなに親切にしてくれるんだい?」
「え・・・?」
麟は宏隆に尋ねられて戸惑った。
誰かや何かを災難から助けることに理由がいるなんて考えた事もなかったからだ。
傷ついている鳥や、激しいスコールになぎ倒された草花と同じように、麟はただ、宏隆に手を貸し、元気を取り戻して欲しかったのだ。
麟の浮かべている、こんな表情を鳩が豆鉄砲をくらったような顔とでも言うのだろうか、キョトンとして何も言えないでいる麟に宏隆は何も答えなくてもいいよと首を振った。
「櫂さんに聞いたよ。 君が息をくれなかったら僕は今ここにいないって。改めて礼をいうよ。ありがとう」
身仕舞いを正し、深々と頭を下げた宏隆を麟はあわてて止してよと押しとどめ、
「礼なんて・・・当たり前の事をしただけなんだから」
はにかみながら頬を染めて微笑んだ。
薄紅に染まった麟の頬が文句無く可愛くて、息をもらったっていうことは、あの紅い口唇が僕の口唇に触れて息を吹き返すことが出来たんだなと、なんだか身体の奥深くで熱いさざ波が沸き上がるのを憶えた。
その時からか、宏隆はふと我に返ると無意識のうちに麟の姿を目の端で追っている自分に気づくようになった。
その度に、小さな溜息を吐いて、いったい何を考えているんだと自分を戒めるのだが、それほど効果はなく、昼間麟が小屋を離れたたりすると、帰ってくるまで何故か心が安まらなかった。
ある日、部屋の中でなら、かなり自由に歩けるようになった宏隆の元に、潜がひょっこり現れた。
「あれ?どうしたんだ?」
一人でくることも珍しければ、滅多に麟のそばを離れない潜が麟の留守に尋ねて来たのは初めてのことだった。
「麟がね、戻れそうにないからって」
食事の詰まった包みを潜は宏隆に差し出した。
大きな葉に包まれた中身は焼いた魚とパッションフルーツという簡素なものだが、ここではかなりのご馳走なのだ。
麟は自分の食べ物は後回しにして出来るだけ栄養のあるものをヒロに食べさせようとしてくれていた。
「ああ、わざわざ悪かったね。 潜も一緒に食べないか?」
「いいの?」
宏隆のみぞおちの高さにある紅い巻き毛を頷きながらポフンと撫でてやると、潜は嬉しそうにニカッと白い歯を見せて笑った。
無邪気に話しかける潜に上の空で相づちを打ちながら、宏隆はぼんやりと窓の外に視線を馳せる。
『何故、麟は潜に食事を持たしたりしたんだろう』
僕が待っているのに・・・
そんな思いがまたしても沸き上がってくるのを宏隆は止めることが出来なかった。
自分がただの居候で、こうして食事を用意する事すら麟の負担を増しているのだと言うことはちゃんと分かっていた。
分かっていながらも、そんなことを考えてしまう自分が、正直何を考えているのか、宏隆にもよく分からなかった。
「麟なら戻ってこないよ」
「え・・?」
「さっきからずっと外ばっかり気にしてるじゃないか、麟は日が暮れるまで戻って来れないって言ってるんだよ。
なんか、波の仕事を手伝わなきゃなんないんだって」子供達の中でも群を抜いて利発な潜は宏隆の心中を察したのか、待っていても無駄だからねと釘を差した。
こんな子供に図星を指され驚いている宏隆に、これいらないの?と無邪気に訊いた潜はもぐもぐと口を動かしながら、一本残っていたバナナに手を伸ばし、自分の発言がどれほど宏隆を驚かせたかには気づかないまま、再び食事に集中した。
その夜、とっぷりと日が暮れて、聴こうとしなければ昼間は聞こえてこない程、耳に馴染んだ波の音が静寂に包まれた小さな小屋にリズミカルに満ちてきたころようやく麟は小屋に戻ってきた。
たいして会話もしないうちに、細々とした用事を片づけ終わった麟が壁に作りつけの小さな棚の上に置いてある椰子油のランプの仄かな明かりをフッと吹き消した後、宏隆の上掛けを手早く直し、先に休んでいてね、と声を掛けた。
「こんなに遅く何処へいくんだい?」
詰るような口調が口をついて出てくる。
さっきまで僕をほったらかしにしていたくせに・・・・
小さな子供みたいな我が儘な不満を抱いてしまう自分に宏隆は辟易としていた。
8割方満ちた蒼い月が澄みきった天空に昇り、いつもなら宏隆の隣に床をのべて休むはずの麟を、妖しい輝きを秘めた月光が暗闇にぼうっと白く浮かび上がらせている。
「波がね・・・」
月明かりしかないせいで陰影がぼやけ、麟の表情がハッキリとは読みとれないが、ちょっと困ったように細い肩を竦めた。
「波・・?波って海の波じゃなくて、この島にいる、あの波?」
宏隆の脳裏にあの背の高い青年の姿が浮かぶ。
「うん。ヒロはまだ会ったことなかったっけ?」
「ああ、あの背の高い男の子だろ?話したことはないけど、姿なら何度かみたことがあるよ」
唯一、宏隆に会いに来ない島の住人。
そう言えば、今日戻れなかったのも、そいつの所為じゃなかったか?
窓から外を眺めていたりすると、時折、しなやかな身のこなしで麟に近づく彼を見かけることがあったが、その度に遠く離れていても、宏隆に何らかの敵意を抱いているような彼の視線を宏隆はいつも感じていた。
思い出した途端なんだか腹立たしくて、麟の傍に来ると必ずこれ見よがしに腰や肩に腕を廻す奴だろうとなんて嫌味が口をついてでそうになり、すんでの所で宏隆は剣呑な言葉を飲み込んだ。
僕は今何を・・・・
「うん。そう、波は櫂より背が高いんだよ。
僕たち前から時々夜に散歩したりしてたんだけど、ほら、ヒロが来てからは僕の方が時間とれなくなっちゃったでしょう?」麟が小さな子を諭す時と同じように優しい声で言った。
そいつと麟のことを『僕たち』と言った言葉が宏隆の胸にぐさりと刺さる。
麟にとって僕は子供達と何ら変わらない存在なのか・・・僕さえいなければ、毎晩でもそいつと二人で散歩とやらに出るわけだ・・・・
邪魔者は自分なのだと暗に言われたような気がして、宏隆は言葉を続ける麟を直視出来ずに視線を逸らした。
「ずっと断っていたんだよ。まだ、ヒロを一人にしておけないって、でも、どうしても断りきれなくて・・・」
宏隆の表情が強張ったのを見取って、麟は困ったように口唇に手の甲を押し当てて次の言葉を模索しているようだった。
「ああ、そう・・お休み!」
言い訳しなきゃならないことなんだ・・・
訳の分からない苛立ちと焦燥感を憶えた宏隆は麟の言い訳がましい話を最後まで聴かずにクルリと身体を反転させて背を向けた。
「ヒロ・・・?ご、ごめんね。すぐに戻ってくるから、ね?」
小さな溜息をひとつ零した麟は、宏隆の背中に頼りなげな言葉を掛けて、そっと小屋の扉を開けて出ていった。
扉がパタンと閉まるとすぐに、小屋の脇で話し声が聞こえ、波が小屋の出口で待っていたことが分かる。
遠ざかる話し声が規則正しい波の音に掻き消されてしまっても宏隆の胸中のさざ波は消えてはくれなかった。