********珊瑚礁の彼方へ*********

 

( 7 )

走り去る麟の姿が見えなくなるまで、唖然と突っ立っていた宏隆は、浮かんでは消える様々な想いに考えを巡らせながら、もう少し辺りを歩いてみることにした。  

目の前に拡がる翠緑色の海は場所ごとに微妙に濃淡を変え、静かな波は岩礁に当たるところだけが白く泡立っていた。    

海の色は鮮やかな色合いなのに、透明度が高いせいか、波打ち際から少し離れたこんなところからでも岩陰に集まる小さい魚影の群をはっきりと見ることが出来た。    



「ヒロ!」  

やっと塞がった大腿部の傷が引きつり、ずきずきと痛みを増してきたので、そろそろもどろうかなと、ぶらぶら海岸縁を歩いていると、不意に椰子の木陰から現れた人物に呼び止められた。  

逆光でよく顔は見えないが、宏隆にはスラリとしたシルエットと張りのある声だけで、呼びかけてきたのが波だと分かった。     

しかし、波が僕に何の用があるというのだろう・・・・    

麟を呼ぶ波の声を何度も聴いて知っているが、宏隆に敵愾心とでも呼ぶに相応しい感情を持っている波に、個人的に話しかけられたのは、半月近くもこの島にいるのに始めてのことだった。  

こうして間近に見ると、櫂ほど逞しくはないが、背の高さだけなら櫂よりも波の方が数センチ高いようだ。  

少しきつい印象のする整った綺麗な顔立ちで、彼もまた明るいオレンジ色の髪をしているが肩の辺りまでサラリと伸びた真っ直ぐな髪をしていた。  

引き締まった筋肉質の身体は無駄がなく、如何にも海の男らしく鞭のようにしなやかな身体をした青年だ。  

同性で同じ世代の男からすれば、波は理想的な容姿を持っていると言えるだろう。  波が麟に惹かれるのも、自然な事なら、麟がこの非の打ち所がない波に惹かれているとしても不思議ではないのかも知れない。  

込み上げてくる醜い嫉妬心が宏隆の言葉尻を嫌がおうにも辛辣にする。

「やあ。珍しいな、君から声を掛けられるなんて」

「皮肉のつもり?」  

棘のある口調で波も聞き返した。  

一瞬冷ややかな冷気が宏隆と波の間にある南国のなま暖かい空気を切り裂いた。  

しかし、嫉妬心を感じるとはいえ、波がなぜ突っかかってくるのかは宏隆にも痛いほどよく分かっていた。  

その事で言い争うつもりはないので、返事をせずに軽く肩を竦めた。  

今までは、『こいつ男のくせに麟が好きなんじゃないのか?』と穿った気持ちで波の事を見ていたが、今となっては、宏隆も同じなのだ。  

それどころか、こんな環境下なんだ。波が麟に抱く感情なんて、ごく当たり前のことなのかも知れない。  

たった2週間ほどしかこの島に滞在していない宏隆ですら、そんじゃそこらの女の子より、格段に素直で可愛い麟を、特別な目で見てしまっているのだ。  

ずっとこんな閉鎖的な場所で凪以外の女性と接触することなく暮らしている、そういうお年頃の波が、優しく、可愛らしい麟に本気で惚れてしまったとしても、取り立ててふしぎなことではない。  

それ故に、今現在麟と一つ屋根の下に同居している宏隆に、ひとかたならぬ嫉妬の炎を燃やしたとしても、決して誰にも責めることなど出来ないんだ。  

愛する人が、他の誰かと寝食を共にしていれば、あらぬ妄想にその相手を忌み嫌うのも無理はないのだ。  

「おまえ、一体何時帰るんだ?」  

苛立たしげに足下の砂をまき散らしながら宏隆に近づいてきた波は、数歩手前に立ち止まり、腰の辺りで大輪の花を誇らしげに咲かしている鮮やかな赤いハイビスカスを波は乱暴に手折った。

「あと、2、3日したら櫂がラグーンの外まで送ってくれるそうだ」  

無事に帰れることを喜ばなければならないはずなのに、自分の発した言葉の意味が宏隆の心に重く暗く拡がっていく。  

あとほんの僅か・・・・そうか・・・そうなんだよな。  

たったあと数日で麟とは永遠に逢えなくなってしまうんだ。  

宏隆の言葉に明らかに安堵した波は麟よりも僅かばかり濃いサラリとしたオレンジ色の髪をホッと後ろに撫でつけた。

「そう、あと2、3日なんだな?  
かならずだな?絶対に違えるなよ!」  

これで麟は俺だけのものだと宣言するように、自信に満ちた強い口調で波は宏隆に念を押した。  

宏隆の胸にまたしても激しいさざめきが起こる。    

お前になど渡さないとどれほど言いたくても、僕は島を出て行かなきゃならないんだ。 

それもあとたった数日で。  

幾ら、悔しくても、僕がこの二人のことをとやかく言う権利などありはしない。    

宏隆は悔しさに奥歯をきりりと音が鳴るほど噛みしめた。幾ら理性では分かっていても、どうしても沸き上がる憤怒は消えてはくれない。

「僕に訊きたいことはそれだけかい?じゃ」 

目の前に立っている波の傍らをスルリと擦り抜けた。  

一刻も早くその場から立ち去りたかった。 

勝ち誇ったように頬を紅潮させ、自信に満ちあふれた波の顔なんか見たくはない。  

宏隆は痛む左足を酷使して、足早にその場を去った。    

歩きながら幾ら頭を振って消そうとしても、波の横で微笑む麟の姿が目の前にちらついて、宏隆の心を掻き乱し続けた。

       

夕闇に紅く染まる小屋に戻ると麟の姿はなかった。  

片足を引きずりながらも、どたどたと抜けんばかりに床板を踏み鳴らし部屋の端まで歩いていった宏隆は、さっきからずっと思考を占めている訳の判ら無い思いにゴロリと横になり腐っていた。  

しばらくして、憤懣やるかたないと言った風情で寝ころんでいるところに、足音も軽く麟が小屋に戻ってきた。

「ただいま、ヒロ。きょうは遠くまで出かけたから疲れたんじゃない?  足は大丈夫?お薬を付け直さなきゃね」  

さっきの気まずさを補って余りあるほどの優しい声で麟は宏隆を気遣った。  

そんな麟を無視するわけにも行かず、

「そんなことないよ」  

ぽそっと返事を返して見上げたリンの左耳の上には鮮やかな赤い花。

それだけで、元々中性的な麟の風貌が一気に華やかになった。    

綺麗だ・・・・    

食い入るように麟を見詰めた宏隆は、はにかみながら微笑み掛けられて、締め付けられるように胸が痛んだ。    

何で花なんか・・・  

ミクロネシアの島々では男も頭に花をさす風習が有るらしいから、ここでも麟がさしちゃいけないってことはないのだが。

「どうしたの、花なんかさして」  

動揺している宏隆の口から出た言葉はかなり辛辣な響き。

「え?ああこれ?  
変かな」  

麟は恥ずかしそうに花に手をやった。

「いや、よく似合ってるよ」  

仕草がまた可愛らしくて、苦しくなった宏隆は無理矢理作り笑いを浮かべて、起きあがりながら視線を麟から逸らした。

「さっき、湯浴みの後かたづけをしてたら、波がさしてくれたんだ。  
ここんところなんだか波ったら変に冷たかったんだよ。  
前は毎日僕の髪に花をさしてくれてたのに」

「へえ・・・毎日ね。  
それはそれは、ご熱心なことだ」  

宏隆が苦労して浮かべていた微笑は麟の言葉に瞬時に吹っ飛んでいってしまった。   

残ってるのは、胸の中に拡がる漆黒の闇と、自分でも嫌なほどの不機嫌な口調。

「ヒロ?」  

宏隆の態度がいつもとは随分変わってしまったことは、麟の目にも明らかだったようで、

「どうしたの?やっぱり僕が花なんかさしてたら変?  
ヒロが嫌なら、すぐにとるから」  

笑顔を強張らせて、急いで髪から花を抜き取ろうとする麟を宏隆はカッなって、大声で怒鳴りつけてた。

「うるさいな! 似合ってると言っただろう!」  

そうさ、似合いすぎる程似合ってるよ。僕がこんなにもイライラするほどに・・・・・・・・・

「そんなにもあっさりと外してしまえるものならはじめっから断ってくればいいだろう!
僕の看病なんて、もう必要ないんだ!  
どうせ麟にとって僕は、手の掛かるチビ達と同じなんだろう?  
そんなに波がいいのなら、波の所に行けよ!」  

自分の吐き出した言葉に驚いて、咄嗟に右手で口をおおったけれど、発した言葉は決して口の中に戻ってはくれない。  

僕はいったい何を言ったんだ・・・

「ご、ごめんね・・・ヒロ」   

怒鳴ってしまったあと、どうしていいか解らずに茫然としていた宏隆を、今にも泣きだしそうに顔をくしゃっと歪めて見下ろした麟は、クルリと踵を返して世界の全てを茜色に染めた夕日の中へと出ていってしまった。    

泣かしてしまったんだろうか・・・あんなに優しい麟を・・・    

開け放たれた扉の向こうが薄紫に彩りを変え、ヒンヤリした夜気が座り込んだままの足下に流れ込んでくると、ぽっかり空いた胸の中に重い後悔と寂寥感が鉛になって、ずしんと落ちてきた