********珊瑚礁の彼方へ*********

 

( 8 )

 

その夜、日が沈んで何時間経っても、麟は小屋に戻ってはこなかった。  

宏隆は結局一睡も出来ぬまま、まんじりともせず、暗闇の中でじっと目を開き、終わりなくうち寄せる波の音に麟の立てる密やかな足音が混じらないかと耳を澄ましていた。    

一秒でも早く夜が明けはしないかと、じりじりと東の空を睨んでいた宏隆は、白々と水平線の彼方が光り出すと飛び上がるように跳ね起きて、転がるように小屋の外に躍り出た。 

しばらく靄の立ちこめる燻ベ色の闇の中で地団駄を踏みながら東の光が闇を照らし出すのを待っていた宏隆は、夕日とは微妙に違う眩しいオレンジ色の光が全てを照らし出したと同時に素足にまとわりつく細かい砂塵ももどかしく足の怪我も忘れて走りだした。    

何処へ行けばいいのか・・・・・  

麟はどこにいるのだろうか・・・・    

考えられる一番の可能性には無理矢理目を瞑り、一抹の希望に縋るように目的の小屋に着いた宏隆は大きな声で叫んだ。  

「凪さま!!」  

叫びに応える声はなく、不躾を承知で小屋の扉を開け、簾越しの寝所にもう一度宏隆は大きな声を掛けた。  

激しく胸を上下させ、息を荒げて簾を凝視していると、簾の奥で黒い人影がもぞもぞと動き、ぬっと、逞しい腕が宏隆に向かってのびた。  

バサッと捲られた簾から櫂が寝起きとは思えないほど精悍な顔を覗かせた。

「どうした?ヒロ。こんなに早くに?凪さまは、まだ、お休みだ」  

櫂の身体越しの僅かな隙間から、凪の艶めかしい寝姿が目に入り、宏隆は改めて自分のしている非礼の深さに気がついた。

「す、すみません・・・こんなに朝早くに、騒いでしまって・・」   

視線を簾から外して、

「り、麟を探しに来たんです」  

しどろもどろになりながら麟が来ていないかと櫂に尋ねた。

「麟がどうかしたのか?」  

首まで赤くなった宏隆にクスッと笑みを漏らした櫂は、大きな体からは想像もつかないほど俊敏にスルリと簾の奥から抜け出して宏隆の立つ戸口の方へとやって来た。

「昨日、ちょっと喧嘩してしまって・・・  
昨夜戻ってこなかったので、てっきりここかと思ったんですが」

「喧嘩?麟とかい? 麟が誰かと喧嘩をするとは思わなかったな」  

意外そうに秀麗な片眉をあげて、

「だが、昨夜は一度も麟は来なかったよ。
なぁに、そんなに心配することはない、おおかた波の所にでもいるんだろう」

「波のところですか・・・・・・」  

宏隆の激しい動揺など、さして気にも止めずに、櫂は中央に窪みのある男らしい顎を指先で撫でながら思い出したとばかりに続けた。

「そう言えば、昨夜波が来てたな。
麟とコロニーを作る許可が早く欲しいと随分強情に言い張っていた。 波は麟にぞっこん惚れてるから、早くペアになりたいんだろうが、凪さまにはどうやら他にお考えがあるらしい」  

別段何でもないことのようにそう言った櫂は、寝起きの身体をほぐすために、軽く首を廻した後に額に係った前髪を大きな手で掻き上げた。

宏隆には櫂の放った言葉が理解できなかった。  

釈然としない面もちで、櫂にきくでもなくボソッと呟いた。

「麟とコロニーを作る・・・?」  

麟と波がペアになる?

波が麟に惚れてるのは分かってる。だけどそれとこれとは別次元の事だろう? 

櫂は何を言ってるんだ?  

そのまま予想外の話しに訳が分からず茫然と大柄な櫂を見詰めていると、

「なんだ?ヒロ。変な顔して?」  

櫂が宏隆のおでこをポンと指で小突き、豪快にガハハと笑った。

「コロニーを作るって?どう言うことですか?」  

改めて櫂に尋ねると、櫂はしまったと額をぺちりと叩き、寝所の方をちらりと伺った。

「悪いな、これ以上話すと、俺が凪さまに叱られちまう。  
麟なら波か子供達の所かのどっちかにいるだろうから行ってみるんだな」  

悪戯を見つかった子供みたいに、肩を竦めた櫂は再びスルリと寝所へと消えていった。    

結局訳の分からないまま宏隆は複雑な心境で凪の小屋を後にした。

凪の小屋から数十メートル離れた場所で、宏隆の足は徐々に歩みを鈍らせ、溜息と共にピタリと止まってしまった。    

どうすればいいって言うんだ?    

ヒンヤリと湿気を帯びていた朝の外気はいつの間にか、火照るような蒸し暑さに変わり、オレンジ色をしていた東の空も輝く太陽に照らされて真っ青に晴れ渡ってきた。  

時計を持たないコロニーの住人達も、まもなく皆小屋の外に出てくるだろう。  

しかし、宏隆は立ち止まったまま、麟の小屋に大人しく戻るべきか、波の小屋へと向かうべきか思案に暮れていた。  

波の小屋へ向かうなど、愚かしい行為ではないのか・・・・  

宏隆の胸に憂いが拡がる。  

櫂の話しぶりからすると、ここでは波が麟に惚れていることなど周知の事実で、別段おかしな事でも何でもないことのようだ。  

宏隆はさっきの話を考えあぐねていた。  

二人は自他共に認める恋人同士って事なのか?つまり、ペアになるってのはそう言う事だろう?  

惚れあってれば一緒になりたい・・・ずっと一緒にいたい、ほかの誰にも渡したくなんかない。

それは誰しもが願うことには違いない。    

でも、コロニーを作るって・・・?    

そこまで考えると、宏隆の思考が混乱をきたしてきた。  

波が麟に恋をしているのは明らかだ。それは宏隆も同じなのだからそれはそれで仕方がない事だ。  

だが、ここでは子孫は残せなくとも男同士の結婚も認められてるとでもいうのだろうか?  

もしかしたら、麟達の一族は僕たちとは生態が異なり、男女比率が元々五分五分ではなく、一対五とか一対十とか、ともかく女性の数が圧倒的に少ないのかも知れないなと宏隆は思いついた。    

そう言えば昨日麟が言ったよな。他の島にも女の子なんていないって。  

いったい、ぜんたい、これはどういうことなんだ?    

宏隆が導き出した答えは、麟と波が両思いで、その上ここでは皆に認められているんだとしたら、お邪魔虫は自分に他ならない。
夜を共に過ごした恋人達の所にのこのこと自分が麟を迎えに行くこと自体、道化でしかないではないかと言うことだった。  

そんなふうに認めるのは至極辛いことではあったが、二人がそれで納得しているのなら宏隆に出る幕はないのだ。  

まして、宏隆は後数日でここから出ていく異邦人に過ぎないのだから。

眼前にハッキリと叩き付けられた現実に、くさくさしながら麟の小屋に戻るべく進路を浜辺にとり、しばらく歩いていると、小さな子達の住む小屋の扉が勢いよく開いて中から二人連れが楽しそうに笑いながら出てきた。  

随分離れているので宏隆の立っている位置からは顔の見分けまではつかないが、二人とも、ちょうど麟と同じくらいの背格好をしていた。

おかしいな、この島には麟と同じくらいの少年はいないはずなんだがなと宏隆が訝しく思いながら近づいていくと、右側にいるのは見まごうことない、麟本人だった。    

なんだ・・・ここにいたんだ。    

昨夜から堅く強張り続けていた宏隆の身体からおもむろに力が抜け、瞼をギュッと閉じ額に片手を当てると、腹の底からもやもやと堪っていた黒い煤を息と一緒に大きく吐き出した。    

麟が波の小屋で夜を過ごさなかった事実に脱力し、麟が事実上はまだ波のものではないことに大きく安堵しながらも、宏隆は麟の横にいる少年がやけに気に掛かかっていた。

仲むつまじいその姿は宏隆に新たな不安を抱かせるには十分すぎた。   

どう見ても15、6才の少年。    

麟と同じ髪の色、同じ様なクルクルと渦を巻いたオレンジ色の明るい巻き毛。  

麟より少し明るく利発そうな露草色の瞳。    

・・・・この子・は・・いったい・・・だれ?