★☆★いつか見た夢★☆★
( 18 )
切るような、シャワ−の水音の向こう側に、微かな音が混じる。
立て付けが古いこのマンションは廊下の音が籠もるのか、外での話し声や靴音が微かにだが漏れ聞こえてきたりするのだ。
だから、普段でも耳を澄ませていれば、神谷は敦の帰宅を知ることも出来た。いや、特別意識して、耳を澄ませていなくとも、一人で帰宅してくる敦が話をすることはないが、深閑とした深夜に部屋の前を通られれば、案外革靴の立てる音は高く響くし、結構靴音の立てる響きというものは個性がでるものなので、なんとなくだが、ああ、椎名が帰ってきたんだなと神谷には分かるようになっていたのだ。
だが、今日はいつもと様子が違う。
密閉された浴室でこれだけ水音がしていれば、いくら古くて防音壁の薄いマンションとはいえ、靴の立てるわずかな音まで聞こえてきはしない。
聞こえてきたのは、敦のであろう低く響く笑い声や、囁きと、それに答える誰かの声。
神谷は無意識にシャワ−のコックを捻って湯を止め、微かに聞こえてくる音に耳をそばだてて神経を集中させた。
会話の内容までは聞こえないが、敦と誰かが、話しながら廊下を歩いて、部屋に帰って来たようだった。
こんな時間に・・・・・・・
神谷の知る限り、敦は神谷以外の誰かを部屋に入れるのを見たことがなかった。ましてや、浴室の中なので正確な時間はわからないが、9時頃帰宅してから、うたた寝をしてしまったのだから、もう随分と遅い時間のはずだ。
明日は、確かに休みだが、それにしても・・・・・一体、こんな時間に、だれと一緒に帰ってきたのだろう・・・・・・・
もう一度、そう考えて、社内で敦と親しそうにしている女の子たちの顔を当てはめている自分にハッと気がつくと、神谷はあからさまに羞恥に顔を染めて、頭を激しく振った。濡れた髪から、水しぶきが妄想を振り切るように飛沫する。
卑しい人間だなわたしは・・・・・・
椎名が誰と夜を過ごそうが、わたしには関係のないことじゃないか。
私が椎名に言ったのだ。
束縛したりしない。
わたしもされたくないのだと・・・・・・可愛い女の子を見つけろと言ったのはわたし自身じゃないか・・・・・
今更、気にするなんて、お門違いだ。ましてや・・・・・・相手が誰だとか詮索するなんて・・・
椎名の真剣な気持ちを踏みにじって置いて、それでも、わたしはこころのどこかで、椎名の好意をまだ期待している。
自分の深淵にある、卑しさと浅ましさに、神谷は深く項垂れた。
止めてしまった湯をもう一度出すのもなんだか億劫で、神谷は脱衣所にかけてある、バスタオルで身体拭い、手早くパジャマを身につけた。
誰もいない緩慢な動作で部屋に戻ると再びベッドにゴロリと横たわる。
ここしばらく続いた精神的な疲労感と、込みあがってくる寂寥感がたった1DKしかない神谷の城にじわじわと広がっているような気がした。
望んではいけないことだとわかってはいたが、こんな時には、しっかりとすべてを受け止めてくれる高瀬川に側にいて欲しかった。強い腕できつく抱きしめて欲しかった。
暖かな肌のぬくもりが欲しかった・・・・・・・
そうすることで、この3年間なんとかやり過ごしてきたのだから・・・・
信じていた三津浦の突然の裏切りで、いっそ、会社も辞めてしまおうとした神谷を救ってくれたのは高瀬川だったのだから。
愛のない関係と引き替えにではあったけれど・・・・・でも、そうしている自分自身がどんどん酷く汚れた醜いもののように、墜ちていくのを感じていたのも事実だった。
そんなときに、昔の幸せを彷彿とさせてくれる敦との穏やかな時間の存在が、神谷にはとても嬉しかったのだ。
この部屋が幸せに満ちていた頃もあったのに・・・・
笑い声と、愛に包まれていた時間が確かにあったのに・・・・・・
愛し合う行為を美しいと感じていたのは遙か昔。
今はどうしてこんなにも空虚な空間になってしまったんだろう。
この部屋も、わたし自身も・・・・・・・・・
♪〜♪♪〜
静寂を破るメロディに、神谷は思考をとめて、枕元の充電スタンドに立てて置いた携帯を手に取り、耳にあてがった。明日、帰国予定の高瀬川からのコ−ルだと疑いもせずに。
「智規、俺・・・・」
「・・・・・・・・」
「ドアを開けてくれないか?今、お前の部屋の前にいるんだ」
「・・・・・・・・」
神谷は身体を強ばらせたまま、驚愕した顔を、白いドアに向けた。
ドアの向こうに、いる?