★☆★いつか見た夢★☆★

 

( 19 )

 

「智規・・・・聞こえてるよな?」

だらりと下げた神谷の手の中で、男の哀願するような声が響くと、誰もいない部屋の中で、神谷は子供のようにいやいやと首を横に振った。

聞きたくない・・・・・
今更・・・・・・

聞きたくなんかない・・・・・・

「3年ってやくそくだったろ?
ちゃんと、帰ってきたじゃないか、約束通り・・・・・な、智規開けてくれよ」

帰ってきた・・・・・・?

誰が・・・・

どこに・・・・・

「智視!」

苛立ったようにドンドンっと、叩かれた振動で白い鉄製のドアが小さく揺れる。

ドアの外に立っているのは今日会社であった、見知らぬ男。

にこやかに笑い掛ける男はかつて、愛したことのある男によくに似ていた。

愛想良く課員に挨拶をしながら、開発部に入ってきた男は、手みやげだと言って、課長のデスクに饅頭を置いた。

それは、昔、愛した男が大好きだった、虎屋の饅頭。

緑茶を片手に美味そうにほおばる恋人に、よくそんなに甘い物が一度に食べれるなと、笑ったことのあるそれを、よく似た男が、左手の薬指にプラチナの指輪が填った手で、置いたのだ。

「お前なんか・・・・知らない・・・・」

何度もドンドンと叩かれて、小刻みに揺れるドアの前までよろめく足取りで向かった神谷は、腹の底から絞り出すような声で言った。

「智規・・・・なぁ、ここ、開けてくれよ。もう一回話し合おう?なっ?」

男の哀願するような声が、ドアの向こうからも、手のひらの中の携帯電話からも同時に聞こえてくる。

それは昔、愛した男の声に哀しいほどよく似ている。

「話すことなんか、なにもない・・・・・・・帰ってくれ、たのむから」

話すことなど、何も有りはしない。

男を信頼し、信じ切っていた自分を捨てていってしまったのはほかでもない、この男なのだから。

アメリカに発つ三津浦が空港での見送りは寂しいからやめてくれと言われて、このマンションのエントランスで、男がタクシーに乗り込むのを見送った時、玄関横に何本か植えてある青々とした木々の中、蝉時雨が7月の茹だるような炎天下の日差しの下で五月蠅いほど鳴いていた。

短い命にかけた恋の季節を惜しむように。

間近に迫った永久の別れを悲しむように。

しかし、その時はまだ、神谷は信じていた。
必ず、お前の元へ帰ってくると言った三津浦の言葉を・・・・・・・・

しかし、三津浦との再会は思いの外早く訪れた。

あれほど五月蠅く蝉時雨が鳴いていた都会の町に、侘びしげな秋風が吹くころ、三津浦が転勤からたった数ヶ月後に一時帰国したからだ。

お互いすれ違うばかりでほとんど電話すら繋がらなかった数ヶ月。

帰ってくることなど露ほども知らされていなかった神谷が、いつも通り残業を終え、マンションのエレベーターに乗ったところに、息せきって走ってきた三津浦が飛び込んで来たのだ。

驚きと、何とも言えない不安に、神谷が何かを尋ねる暇も与えず、その夜、三津浦は狂ったように神谷を抱いた。

何度も、何度も・・・・・狂おしく、乱暴なほどに。

愛されているのか憎まれているのか分からないほどに・・・・・

その数日後、社内の噂に疎い、神谷の耳にも真実が飛び込んできた。
三津浦が唐突に現れた翌日、三津浦と専務の娘の挙式が内々だけで急いで行われたことを。

元々、約束されての転勤だったのか、それとも、たまたま、アメリカに留学していたお嬢さんと懇意になって妊娠させてしまった予定外の出来事だったのか、未だに神谷は真実を知らないし、また、知りたくもなかった。

ただ、やはり、そう言うことなのかと・・・・
怒りよりも悲しみよりも沸き上がってくる哀しみがあった。

わたしは待っていたのに・・・・・・
必ず帰ってくると言ったのに・・・・・
約束はやはり守られはしなかったのだと。

あの時と同じように、結局、誰も私を愛してはくれない。

所詮かなわぬ夢を見た、自分がバカだったのだと・・・・

 

「三津浦・・・・・・こんなところで、何をしているんだ?!」

唐突にドアの向こうから聞こえてきた、三津浦とはトーンの違う低い声に、神谷はハッと目を見開いて、扉のノブに指をかけた。

震える指は、もどかしいほど、上手くチェーンが外せない。

なんとか急いで開けたドアの先には、長身の男が二人、辺りを威圧するようなスーツ姿で、にらみ合うように向かい合って立っていた。

「高瀬川課長こそ、こんな時間になんのようなんです?」

「大丈夫か?」

三津浦の言葉を無視して、安否を尋ねる高瀬川に、神谷は蒼ざめた顔で小さくこくりと頷いた。

☆★☆

 

「ほら、水だ、椎名。俺は、缶ビール一本貰うぞ」

「ああ、何本でも好きなだけ飲めよ。しかし、相変わらずざるだな、おまえ・・・・・」

世間一般の青年より幾分体格がいいぶん、敦も結構飲める口なのだが、些か飲み過ぎたのか、ぐったりベッドに凭れるように足を投げ出して座り込んで、朝永がコップに注いで運んできてれくた冷たいペリエをごくごくと飲み干した。

「お前が珍しく酔ってるのに、俺まで酔いが回っちゃ、どうしようもないだろ。お前みたいにでかい奴タクシーに乗せるだけでも重労働なんだぜ」

ほんの少しだけ、薄い唇を眇めるような癖のある笑い方で微笑むと、台所にとって返した朝永は、さほど大きくもないツードアの冷蔵庫を開いて、ドアポケットから缶ビールを取りだしたのだが、ドアを閉めた後、なぜかじっと、そのままの姿勢で止まっている。

「朝永?」

敦が怪訝そうに声を掛けると、

「しっ!」

肩越しに振り返って、人差し指を口に当て、缶ビールを持った方の手で、敦にこっちへ来いと手招いた。

「なにか、聞こえないか?」

よっこらしょっと、立ち上がった敦がふらふらと歩いていくと、朝永が耳をそばだてて、何かを聞き取ろうとしている。

言われてみれば、テレビの音なのかなんなのか、話し声のような物が聞こえるような気がした。

「ああ。。このマンション古いから結構静かにしてると隣の音とかきこえるんだよ」

ひっこしそうそう、あんな声まで聴いちまうほどにな・・・

苦笑しながら敦が元の場所に戻りかけるのを引き留めて、

「隣って、たしか神谷さんの部屋だよな?」

朝永が敦を見上げて聞き返したとき、今度はドンドンとドアを叩くような音が聞こえた。

とっさに二人はハッとしたように顔を見合わせる。

「表にでてみよう、椎名。こんな時間に、ちょっと変だ」

朝永が、最後まで言い終わらないうちに、さっきの千鳥足はどこに行ったのかと思うほど、しっかりした足取りで、足早に敦は玄関に向かった。