★☆★いつか見た夢★☆★

 

( 2 )

 

「なぁんか、行きづらいんだよな・・・・・」 

あと一つ残った洗剤の箱を両手に抱えたまま敦はマンションの廊下を行きつ戻りつしていた。  

箱には紅白の水引の付いたのし紙。  

昔ながらの下町気質を未だに持っている敦の母が、両隣、上下にのお宅に必ず配るのよと持たせたせてくれたものだった。  

真上の住人はまだ学生らしい少し神経質そうな青年で、真下は独身のお姉さん(かなりのお姉さんだが・・・・)右隣は空き部屋だったので、もう一つ向こうの部屋に住んでいる、三十代ぐらいの男性に渡した。  

もちろん、残すところは左の一件のみ。  

出鼻をくじかれるとはまさにこんな感じで、朝っぱらからあんなものを聞かされたあとだけに、持っていきにくい。  

女の子だったら、想像しちゃうよな・・・・

ああ、もう、しかたねぇな。

「よし!」  

ふん!と気合いを入れて、呼び鈴を鳴らした。

『はい』  

一呼吸置いた後、用心深そうに、インターホン越しに返事が返ってきた。  

よ・・・よかった男の方だ・・・・

「あ、スミマセン、今日隣に越してきた椎名と言いますが」

『え?ああ・・はい。すぐ開けますから』  

ことば通りすぐにドアが内側に開いた。

「お隣に越してこられたんですか?ずっと空き家だったから、ちょっとびっくりして」  

愛想良く微笑んだ彼の顔が少し照れくさそうに見えたのは、敦の老婆心からだろうか。  

出てきた彼は敦と同じ年頃くらいの青年だった。   

青年も決して背は低くはないが、人並み以上に背の高い敦からは見下ろすような形になる。

「これ、引っ越しのご挨拶なんです。え・・・と」  

ドアの上に表札らしきものを探すが、ほかの家同様ここにもネームプレートは出されていない。  

仕方なく、曖昧に言葉を濁した。

「それはご丁寧に、椎名さんでしたね、神谷です。よろしく」  

神谷と名乗った青年はスッと洗剤を受け取ると、反対の手を差し出した。

「こ、こちらこそ」  

敦は出された、神谷の綺麗な手を一瞬凝視した後ぐっと握りしめた。

柔らかな女性のような手だった。  

大きくて、ごつい敦の手のひらの中にしっとりと収まる感触はヒンヤリとしていてここちいい。  

どう見ても女を朝ぱらから抱くような精力的な雰囲気じゃないけどなぁ・・・・・・  

身長は188ある敦よりはかなり低いが170は越えてるようだし、すっきりと整った顔立ちからストイックな印象すら受ける。  

今は明るい水色のトレーナーを着ているが何となく牧師の黒い詰め襟を着たらしっくりと似合いそうなタイプだ。

「椎名さん」  

そんなことを考えていたら、神谷が敦の顔を見上げて、にこりと微笑んだ。  

微笑み掛けられると、こっちの頬が緩むようなそんな微笑だ。

「は、はい?なんですか」  

なんか、いい笑顔だな、とつい、生返事をしながらみとれてしまう。

「そろそろ、手を離して貰えませんか?」

「え?」  

神谷の視線をたどると、そこは・・・・神谷の手のひらをギュッと握りしめたままの自分の手。

「う、うわぁ!!!」  

やけどでもしたように手を振り払い真っ赤になって叫んでいる敦に、神谷はクスクス笑って、会釈をすると、部屋の中に戻っていった。  

俺ってなんて、初対面から恥ずかしい奴・・・・・  

閉じられた扉の前で敦はしばらくぼーぜんと突っ立っていた。

 

★☆★

 

「格好いいよな〜高瀬川課長って」

本社ビルの中にある研修ルームでの最終日、配属場所が張り出されたのホワイトボードの前で、光谷昭久が溜息をついた。

なせ、光谷が溜息をついているかというと、彼はこの研修期間、一番新入社員の中で受けのよろしくなかった、宝山課長のいる経理課に配属されたからだ。

敦の入社したHAZAMA電子株式会社は、業界最大手とまでは行かないが一部上場の優良企業だ。

創立は昭和30年代、日本が戦後大きく躍進した頃に旗揚げをし、当初は計算機などを扱う会社だったが、時代のニーズにのり、業種は幅を広げ、今は特に液晶関係に力を入れている。

光谷の不満は、課長だけにあらず、配属先が経理課だと言うことも大きな要因ではあるのだろう。

この就職難に、大手に就職できただけで本来はありがたいと思わなければならないのだが、実際の所、これだけの企業にも関わらず、本社採用はたったの5人。

しかしだてに彼らは電子工学科を卒業したわけではないのだから、皆の、憧れは自ずと、高瀬川課長のいる、第一開発部に配属されることだった。

「いいなぁ・・・・・朝永は」

ただ一人、開発部に配属された朝永治喜を皆が取り囲んで嘆息する。

「こんなの、最初だけだからわかんないさ、たぶん雑用ばっかで、開発なんかに関わらせて貰えないだろうしね」

「まぁな、最初からそれは高望みってもんだよ」

「ああ、でも俺なんか営業だぜ??なんのための4年間だったんだか」

敦も、羨ましそうに朝永を見たのだが、大男の敦にはるか頭上から見下ろされた朝永は首が痛くなりそうなほど顎を上げた状態で、細い銀縁めがねの奥の目元を綻ばせた。

「売る奴がいなけりゃ作っても仕方ないだろう。
それに営業なんていうのはなぁ、椎名みたいに好感度の高い外見じゃないとつとまらないよ。
俺みたいに無愛想な面は駄目なんだってさ」

少し、くちびるを眇めて笑う朝永は、確かに好感度なんてがらじゃないけど、ニヒルな感じが個性的で、好対照とでもいうのだろうか、敦と一番うまがあった。

大男の敦と男としては小柄な朝永は仲間内では凸凹コンビと呼ばれているくらいだ。

「はいはい、俺みたいに下町生まれの脳天気な奴は営業で米つきバッタになりゃいいんでしょ。
それよか今日で研修も終わりだし、配属先のビルが違う高城と大下とはそうそうあえなくなるだろ?パーっと飲みにいこうぜ」

朝永にはいつも言いくるめられてしまう、敦は大仰に肩をすくめて見せてから、皆を打ち上げに誘った。

その夜、一ヶ月の研修の苦楽を共にした同士達と、敦は週明けからの勤務に胸を膨らませながら、盃を酌み交わした。

学生気分で、騒げるのは今夜が最後なんだなと思うと、なんだかそれはそれでセンチメンタルな気分で、早い時間から飲み始めたというのに、お開きになったのは夜半をゆうに過ぎていた。

 

敦が酔い覚ましに駅から歩いて帰ってくると、マンションのエントランスの前に白いセルシオが止っているのがみえた。

誰かに送ってもらったのだろう、小さく運転席に手を振っているのはほかならぬ隣人の神谷だった。

車が走り去ったあと、なぜかフッと肩の力を抜いた神谷は少し離れた所に立つ椎名に気づくことなく、疲れたような重い足取りで中に入っていった。

 

銀色の扉が目の前で今まさに閉じようとしていた。

「俺も乗ります!!!!」

閉まりかけたエレベーターのドアにがっっと手をかけて息を荒く乱しながら敦は夢中で駆け込んでいた。

『ヤバっ!』

何も考えずにした行動だった。

神谷を見つけて、知らず走り出していたのだ。

自分でもなぜかなんてわからない、ただ夢中で・・・・・・・・・・・

しかし、敦はまたしても自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気がついた。

ガタガタと傍目にも分かるほど震えている神谷が恐怖の色をその綺麗双眸に浮かべて、ずりっと壁際まで後ずさりながら椎名を見上げていた。

神谷を表で見つけて、思わず走り出したものの、よくよく考えて見れば夜中の12時過ぎに息を切らして密室であるエレベーターに誰かが駆け込んできたら、大男の椎名だって、いい気はしないだろう。

だが、この戦き方は尋常じゃない。

「え・・・あ・・・・スミマセン!驚かしちゃって・・・」

どうすればいいのか分からない。

しどろもどろに真っ赤になってあやまる敦に血の気の引いた顔で小さく頷くと、神谷は上昇したエレベーターの扉が再び開くのを待ちわびていたかのように踊り場に逃げだし、椎名を振り向くことなく部屋の中に入っていった。

俺・・・・・・何しちゃったんだろう・・・・・・・・

神谷の態度を見れば、はからずもとんでもないことを自分がしでかしたのだと言うことは分かった。

楽しく仲間達と酌み交わした酒の酔いなど、とっくにどこかに吹っ飛んでしまい、敦はまたしても、神谷の部屋の前で、呆然と立ちすくんでいた。